close

最近Kindle readingを始めたばかりの私ですが、はまってしまいました。

 

携帯で見るので、すぐバッテリーが切れるのが玉にきずですが、本当に便利で、今の所目に不具合もさほどは感じていません。重い本を持ち運ぶ必要もないし。初めは、「手で本に触る事が好きだから、Kindleなんて、無縁だね」派だった私も、あっけなく、本当にあっけなくkindleの虜になりました。読みながら、辞書で意味が引けると言うのもたまらなくいい!自分がどれくらい読み進めたのかも、ご親切に教えてくれるし。やっと、現代人だね、私も、と思いながら読んでますが、それは善し悪しですけどね。でも、従来の本をめくりながら、読むのもまだ好きですよ〜。結局、本ならどんな読み方も好きだって事に、気づきました。「あんた、本ばかり読んでないで、子ども達が何してるのか、ちゃんと見てるの?」と実家の母に小言を言われてしまいましたが、本は本当にいいですっ!(ちゃんと子どもの世話もしてますよぉ〜。母なる者はMulti-taskingでなくてはやってけません!)

 

なので、今度、最近買ったばかりの本たち(十数冊に及びます、はい...。)をすべて読み切った暁には、旦那にAmazon Kindle専用機を強請ろうと思っています。本好きにはたまらないテクノロジーですっ!

 

とまあ、kindle readingの賞賛はこの辺にして、初kindle readingを果たした記念に、その作品を紹介したいと思います。

 

大好きな三浦綾子さんの作品の「裁きの家」を約2日で読破致しましたぁ〜〜〜!!!(パチパチパチ!)(因に現在「広き迷路」を閲読中です。)

 

 

(Image source: http://www.amazon.co.jp/%E8%A3%81%E3%81%8D%E3%81%AE%E5%AE%B6-%E9%9B%86%E8%8B%B1%E7%A4%BE%E6%96%87%E5%BA%AB-1-1-%E4%B8%89%E6%B5%A6-%E7%B6%BE%E5%AD%90/dp/4087500187)

 

しかし、あれですね、氷点もそうですが、本当に色々なストーリーを考え出せる三浦綾子さんの才能に感心させられます。というより、その才能を与えられた神様に本当に驚嘆させられますね。まあ、以下、アマゾンさんに投稿したレビューをそのまま、ここに引用します。(って自分の文章も「引用する」っていうのでいいんだろうか...。Anyway~。)

 

あっ!!!もしこれから、お読みになろうとしている方は、決して私の感想をご覧にならないで下さいね。ストーリー自体にはそんなに触れてませんが、すこしだけ触れてしまっているところもあるかもしれませんので、「これからどうなるの?どうなるの?」的なお楽しみを奪ってしまっては申し訳ないですもんね。

 

 

 

三浦綾子さんの作品は大好きで、沢山読ませて頂いてますが、まずいつも思うことですが、三浦綾子さんの作品は本当に人間の心理描写がリアルで、いつも圧倒されます。これだけ心理描写が詳細にわたり生き生きと、且つリアルに描かれているのを見ると、登場人物を通して、三浦綾子さんの日常の心の中での思考や、またその周辺に生きる人々との交流を通して見えた人間の本質なるものがありありと目に見えるようです。

人間の本質と人類にとっての神の存在とは何か、ということを三浦綾子さんは全ての作品を通して語っておられます。人間の原罪、エゴ、自己中心的な思考等を題材に取り上げ、それを押し付けるのでもなく、読者が引いてしまうのを心配して、読者に媚を売ったり、わざと遠ざけて語るのを避けるのでもなく、さりげなくさらりと、それでいてしっかりとその題材について語り、読むひとが、「クリスチャンの説教本」という硬い壁を感じる事なく、自然にいつの間にか三浦綾子さんが全ての登場人物を通して語る事に真剣に耳を傾けてしまう、そんな「魔法」を著者は明らかに持っています。神様は明らかに、三浦綾子さんにそうの要な能力を授けていると、思わずにはいられません。

この本は、「人間が人間を裁く権利があるのか」ということが主題だと思うのですが、これは聖書の中の売春婦のマリアを人々が罵倒し、石で殴り殺そうとする場面そのもののように思われます。その時、イエスはこう言われました。「あなた方の中で、全く罪を犯した事がない者が、この女を石で殴り殺しなさい。」と。その時、ひとりまたひとりと、あれほどマリアを裁こうと血気だち興奮していた観衆が去っていきました。全ての人間は心の中に、人には見えない闇があり、その中に潜む悪という種「原罪」を飼っています。その原罪に引きずられて生きるか、それを拒み神の道に生きるか、神は人類に自由の意思を与えた訳ですが、この世の中は、誘惑で溢れており、肉体が欲するままに生き、神の道、良心、モラルといったものを全て無視することは、なんと危険な事かと、読みながらつくづく考えさせられます。それでも修一はこういっています。「僕はそれと戦うのが好きなんだ。」これには、はっとさせられます。誘惑と戦うのを好むひとはどれほどいるだろうか。欲しいのに、手を出してはいけない。苦しいだけではないだろうか。創世記の中の、イヴもアダムもそうだったからこそ、神の掟に逆らってしまい、原罪を人間の心に植え付けてしまったのではないだろうか。それを、「それと戦うのが好き」とはっきりと、爽やかにさらりという。そこに、本当に清らかな、澄んだ心を見た気がしました。それはまた、著者の心理でもあったのではないかと思うのです。原罪を宿した人間には曇り一点のない本当に清らかな心などあるはずもなく、つまり全く罪のない心=清い心、ではないと思います。自分が清らかな心を持っている、と胸を張り驕る事こそ、罪深いことではないでしょうか。それよりも、その罪を認識し、それに従う事を拒み、神の道を選ぼうとする生き方、そこに私は著者の清らかな精神を見た気がします。「自己主張の果ては死」。それをもっとも顕著に象徴しているのが、滝江の自己本位的な生き方であるが、それを裁こうとする息子の清彦もまた、ある意味「母は罪深く、自分は正しい事をしている」というエゴに溺れ、自己主張を貫ぬき、母の滝江を自らの手で裁こうとした故に、終には彼が一生後悔するであろう悲劇を生み出してしまうのです。私たちは自分や他人に焦点をあてて、自分の方がこの人より清い、などと比べ合いっこして、日々裁き合っている訳ですが、人に裁かれるもの、人を裁こうとするもの、どちらをとっても、神の目においては、五十歩百歩、ドングリの背比べのようで、滑稽に思えてきます。他人や自分にばかり焦点を当てるのではなく、もっと崇高な存在、相対的ではなく絶対的な存在に焦点を定めて初めて人間は人間なる者、神なる者を本当に理解するのではないでしょうか。

 

以上、ご興味の沸いた方、ぜひぜひ読んでみて下さいね!

arrow
arrow
    全站熱搜
    創作者介紹
    創作者 LekkerTreeFamily 的頭像
    LekkerTreeFamily

    寶寶小日記:つれづれなるままに...

    LekkerTreeFamily 發表在 痞客邦 留言(0) 人氣()