昨天看到一篇小新聞
在洞爺湖發生的一個"小小事件"
有關中國,台灣,日本....
我通常不太會在公共場所發表這種意見
可是看完了,我有點感想想在此分享一下....
說不一定有點主觀
也沒有很多這方面的知識
不正確之處 請多多見諒.....
私は普段、公共の場で自分の政治的見解(と呼べる程のものではありませんが…)を述べることに関して、どちらかというと躊躇いがちです。まず、自分の政治的知識が乏しいのと、やはり誰でも自分の国を擁護する気持ちが先走りがちになって主観的になってしまう所があるから、とでもいうのでしょうか、とにかく政治的見解については控えめに、というより避けれるならば避けて通ってきました。
でも、先日、洞爺湖サミットのとある看板から中国側の反発を懸念して、会員企業らが台湾国旗をはずした、という記事を読み、何か言いたくなりました。とっても小さな記事です。小さな記事ですが、こういう記事こそ、論ずるに値するものではないか、と思うのです。記事は以下の通りです。
“道民雑誌('A`) φ ★:2008/07/07(月) 10:05:23 ID:???0
台湾の旗描いた歓迎看板 中国の指摘受け撤去 そうべつ観光協会
【壮瞥】胆振管内壮瞥町の道道脇に設置された北海道洞爺湖サミット歓迎看板に、中国やサミット参加国などとともに、台湾の「青天白日満地紅旗」が描かれ、中国政府関係者が日本政府に不快感を表明していたことが六日、分かった。看板を設置した同町のそうべつ観光協会は六日、看板を撤去した。
看板は、サミットで洞爺湖地方を訪れる関係者を歓迎するため、洞爺湖畔の南側を通る壮瞥町壮瞥温泉の道道沿いに、七月初めに設置。「G8サミット歓迎」というメッセージの下に、G8各国と中国、台湾、韓国の旗を描いた。
中国の胡錦濤国家主席は、九日のサミット拡大会合に出席するため七日道内入りする予定。これに先立ち、中国政府関係者が六日、洞爺湖周辺を訪れ、中国の旗と台湾の旗を並べて描いた看板を発見した。
外務省は、中国政府の指摘を受け、道を通じて壮瞥町に事実を確認。同協会は「この地域の外国人観光客で一番多いのは台湾人で、感謝の意を込めた。政治的意図はなく自主撤去した」と釈明している。
外務省は「看板は民間組織が独自に設置したものだ。是非は判断していない」としている”http://mamono.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1215392723/
北海道では台湾人の観光客は年々増えています。それに対して、“感謝の意”を表して観光協会が設置したにも関わらず、サミットが開始された今になって、“政治的意図はなく自主撤去した”とのこと…。外務省は外務省で、責任を全て民間に都合よくバトンタッチ。もし政治的意図がないのであれば、そのままにしておいてもよかったのでは…。それに、“感謝の意”を表して設置したものを、そう簡単に撤去してしまうのは、誠意がないようにも思います。初めからないならないで良かったかも知れないものを、一度設置したものを、そう簡単に撤去してしまえるのは、本当には感謝してなんかいないということが、看板が初めからないよりありありと伺えるところ…。
そもそも“国”って何なんでしょう?自分が何処の“国”に属するかは、多数決で決まるものなのでしょうか。世界の認可に関わらず、自分が何人であるかは自分の心の中に存在する誇りではないのでしょうか。台湾国旗を外されたとしても、台湾人が台湾人であるということに変わりはなく、台湾人としての誇りは捨てないと信じます。
でも、他国がその国旗を外した行為に対しては、怒りなどの感情を抜きにしても、相互尊重とか、相互信頼とか、そういった人間関係の最も基本の所が崩れていく音さえ聞こえてきそうです。それは、貴方たちの国は存在しません、と大声で言うのと同じ。確かにUNには加入していないし、中国との関係で微妙な立場にいるから、触らぬ神に祟りなしで、なるべく中国を逆撫ですることは避けて通りたいのは分からないでもない。でも今現在も世界各地で沢山の人たちが“国”として認められようと命がけです。確かにそれは自分のIDだけでなく、利益を伴った争いであるかもしれません。でも、根本は自分という存在の主張だと思います。自分という存在を認めてほしい、という気持ちは誰もがもっているものでしょう。国は人が自分というものを語る上でなくてはならないものです。それは人一人、ちゃんと名字があるのと同じくらい大切なものではないでしょうか。他の人が何と言おうと、最後に問われる問題は“他の人は他の人、大事なのは貴方はどう思っているのですか”ということだと思うのです。それは、キリストがその信徒に自分は誰かと聞いたときと同じだと思います。Mark 8:27-30はこう言っています。
“27 Jesus went out, along with His disciples, to the villages of Caesarea Philippi; and on the way He questioned His disciples, saying to them, “Who do people say that I am?”28 They told Him, saying, “John the Baptist; and others say Elijah; but others, one of the prophets.” 29 And He continued by questioning them, “But who do you say that I am?” Peter answered and said to Him, “You are the Christ.” 30 And He warned them to tell no one about Him.” http://biblebrowser.com/mark/8-4.htm
つまり、“私は誰か”という問いに対して、ペトロは“ヨハネという人もいれば、エリヤと言っている人もいます。また、預言者の一人といっているひともいますよ”と答えたわけです。それに対して、キリストはこう聞き返しました。“では、貴方は私が誰だと思いますか。”要するに、他の人はどうでもいい、問題は貴方がどう思っているか、ということをキリストはペトロに聞いているわけです。つまりは、他の人の意見を述べて、逃げてしまうのは簡単だけれど、勇気を持って自分の見解を述べてみよ、ということだと思うのです。自分と向き合ってみたときに、本当に自分の信ずることは何か、ということをキリストはペトロの目をみて言ったのではないでしょうか。逃げる心の中を見透かされて、ペトロは最後にはっきりと“貴方はキリストです。”と答えました。その時のペトロの心の中やっとがすっきりし、本当に自信がついたのではと思います。
話は戻りますが、“国”であると言うことは国際社会において、とても便利なことです。旅行の際、日本人はパスポートをすっと出せば、大抵の国に簡単に行けますが、“国”として認められていない世界の“地域”の人たちは簡単に旅行といってもVISAを取るだけで大変なんです。例えば、旅行一ヶ月前までに申請を出さないといけないとか、色々あるわけです。そんな中で、旅行好きの台湾人はそれでも頑張って世界に出て行っているわけです。平和でほのぼのとした便利な日本ではあまり感じることはできませんが、それが今日本列島を離れた沢山の所で、特に“地域”と呼ばれる人たちの所で、当たり前に起きている現実なのです。
日本は堂々たる大国とも言うべきれっきとした“国”です。でも、ある日急に日本は国ではないと世界が言ったらどうでしょう。しかも、それが世界大国の多数決によって決められたものだとしたら…。悔しい、悔しくないは別として、まず日本人の心の中の“日本国”は急に“日本地域”に変わってしまうのでしょうか。日本人は日本人としての誇り、そして独自の文化、歴史を大事するのと同じく、台湾人も自分の“国”を愛しているわけです。そこの所は同じなのに、世界が認めたと認めないで、扱いがそこまで違うのはあまりに可哀想…。
中国は大国で、市場が大きい。大国も大国、超巨大国家!!!まず人が多い。うようよいる。だから、消費も大きい。加えて近年の成長には目を見張るものがある。企業にとって、発展ポテンシャルが大きい。だから企業が懸念してそういう行動に走ってしまったことは理解できないわけではありません。しかも経営者なら、まずその社員とその家族の生活をまず頭におくべきだとも思います。その為には少々の犠牲は仕方ないのかもしれません。大きな目的の為に、小さな、ましてや“国”と言う称号もない“台湾地域”は外しても、ギャーギャー言われても怖くないのかもしれません。どうせ小さな島“国”台湾ですから、文句言われても大した力はない、ということでしょうか。天秤にかけた時、中国の方が大分重かったわけなんですね、要するに。
ですが、自分の立つ場所を中国の存在なしに決められないというのはあまりに悲しい…。世界に誇る日本らしく、中国にびくびくしないで堂々としたらいいのではと思います。 しかも、日本領土内のことじゃないですか。自分の国の中で、どんな看板を掲げようが、最終的には日本が決めることであって、中国政府の出る幕じゃないと思うのは私だけでしょうか。しかも、歓迎の意であって、けして中国を罵っているわけでもなし…。それも許せないようじゃ、大国と言えども、他の国が誰と友達になるかにもぐちぐち言うようじゃ、中国も器が小さい。
偉そうなことばかり書いてしまいましたが、この記事は結構心に感じるものがありました。なんというか…、仕方ないかもしれないことだけど、情けない感じです。主観的ですが、悲しいです…。真実は人の認可を要しません。真実は真実である限り、人が信ずる、信じないに関わらず、そこに存在します。台湾人の心の中の台湾も同じです。世界が“国”という照合を与えようが、与えまいが、台湾人の心の中の台湾は台湾国なのです。
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